不破関とは
不破関庁舎跡
不破関は672年壬申の乱後、律令体制の整備に伴って(8世紀初め)に設置されました。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つとされています。
関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者を阻止する目的であると考えがちですが、壬申の乱で大海人皇子が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられています。
北限の土塁跡
不破関の構造については、昭和49年から52年に掛けて岐阜県教育委員会が実施した発掘調査により明らかになっています。西側は藤古川を利用し、三方を土塁で囲んだ約12haが関の範囲になっており北側の土塁は現存しています。
また、東山道に接する形で掘立柱建物群が確認されており、その構造や規模は判明しませんでしたが、この付近に多くの瓦が出土することから、関の中心施設はここに位置していたと考えられています。
不破関は延暦8年(789)年に関の機能が停止されましたが、その後、鎌倉時代には通行料(関銭)を取っていたことも明らかになっています。江戸時代にかけては、歌に詠まれることが多くなり、松尾芭蕉は野ざらし紀行の中で「秋風や藪も畠も不破関」という句を残しています。