壬申の乱
壬申の乱は西暦672年に起きた古代史上最大の内乱であり、その内容は日本書紀巻二十八(壬申紀)の解釈によります。関ケ原町もその舞台となりました。ここでは、乱の概略とともに、関ケ原町内に残る壬申の乱ゆかりの地を紹介します。
1.乱の発端
壬申の乱は天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の同母弟
当時の皇位継承については親子より兄弟が優先されていたのにも関わらず、天智天皇は個人的な愛情により大友皇子への皇位継承の意を表しました。
その際、天智天皇は大海人皇子の出方によっては殺害しようとし、大海人皇子は身の危険を察知して出家し、吉野へ逃れて、挙兵の準備をしたとされています。
しかし、近年の研究では、
※倉本一宏2007「戦争の日本史2 壬申の乱」吉川弘文館
2.乱の経過
岐阜県博物館企画展図録『壬申の乱の時代・美濃国・飛騨国の誕生に迫る』壬申の乱図を一部改変
大海人皇子は、
672年6月22日には美濃へ3人の使者(
※「不破道」はのちの「不破関」の可能性が高いですが、日本書記には「不破関」の記述はありません。
6月26日には大友軍が不破道を越えようとしたところで、大海人軍に拘束されています。
大海人軍は吉野から伊勢、桑名を経由し、6月27日に野上に本営を置いています。「野上行宮」の本隊は高市皇子を筆頭に野上から約3㎞離れた「ワザミガハラ」(現在の関ケ原付近と言われる)に集結しました。
7月1日には、「
7月24日、不破の大海人皇子に大友の首がもたらされ、終結しました。
以後大海人皇子が天武天皇として即位し、中央集権国家の形成を推し進めました。
3.壬申の乱ゆかりの史跡
壬申の乱の際、大海人皇子が本拠地を置いた場所と言われ、関ケ原町大字野上地区の長者屋敷と呼ばれる丘陵地です。
野上は
ただし、この地では関ケ原方面の視界がきかないので。桃配山に置いたという説や、東山道沿いに置いたという説もあります。
桃配山
関ケ原合戦の際に徳川家康が布陣した山として有名ですが、その語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたものです。
しかし、「日本書紀」等で記述はなく、その根拠については未だ謎に包まれています。
不破道(ふわのみち)
日本書紀には大海人皇子が「不破道」の閉塞を命じている部分が出てきます。大海人皇子が不破道を防ぐことによって大友皇子は東国での徴兵ができなくなり、大海人勝利が確定したとも言えます。
不破道は現在の不破関あたりであると考えられています。
自害峰(伝 弘文天皇陵)町指定天然記念物
大海人皇子軍の
明治8年には国の教部省により調査されましたが、大津市の候補地が御陵に指定されています。また、明治44年にも宮内庁が再調査をしています。
なお、「弘文天皇」という名称は明治3年に与えられ、現在「弘文天皇陵」は大津市御陵町に指定されています。
黒血川
壬申の乱の、